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新松戸教会牧師 津村 悦子 Etsuko Tsumura 2002年5月19日のリバイバル新聞に特集として記載されていた「聖霊運動の歴史と現在」と云う記事を読む時が与えられました。 約100年前に始まり、急速な勢いで全世界に拡大して来たこの歴史や現状は、1世紀の間にキリスト教界全体の中で主要な位置を占めるに至ったと分析してあり、異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことに象徴的な起源が求められるこの運動は、神学的には19世紀で全世界に爆発的に拡大して来た。この流れは従来の教派を出て新たな教団を形成するに至ったとあります。 日本キリスト教団の中にもその働きが流れ、喜びと苦悩が生じる事となったことは云うまでもありません。(私も聖霊体験をしていましたが信じられない心境でした)。古くて新しいこの働きを教団の牧師、信徒の方々に伝える使命があります。世界の私の訪問した国々では、この働きは伝えられカトリック、福音派教派にも拡大し、第三の波と呼ばれるゆえんでしょう。10年前に2・3回ですが聖会の会場にのぞき見した所では、「リニューアル・ミニストリー」が行われ、聖霊によって安息を得ている人々の姿があり、肉体や感情面に起こる現象はすでに何万人の人たちが経験をしています。単に賜物だけを求める信仰は問題があり危険であると言えるでしょう。しかし「主から与えられた時」これは何故だろうと、教団出身の神学でこちこちの私たちには未地の世界ではないかと、体験した後と前とでは受け取り方が雲泥の差があるのには驚きであったと言えます。無名の私たち夫婦にこんな素晴しい賜物を与えられたことは、もうその時が来ていると言わざるを得ません。13年前の私の聖霊体験の意味がやっと裏打ちされました。 伝統的な教派に属する牧師、信徒の方々がこの聖霊の波に導かれることを祈ります。私たちもそれなりに主の霊に満たされ喜んで燃えていた者ですが、それ以上の解放と聖霊の注ぎによっての神の完璧なみ業を実感しています。 この聖霊の働きに対して、反する悪しき霊の働きも、さまざまな形でおしよせて来ているのも事実です。この事柄は二つの方向に分かれていると言われています。 第一方向として―「さらに祈りの中へ、父なる神を待ち望み神の声を聞く」。 第二方向は―「誘惑の罪の中に入り込み、否定的になる人たちと、別れて行くと、しかし、それも時間の問題でやがて変えられて行くことを確信しています。 聖書は「神の霊感によって書かれた」とあるように、ご自分の意志によって人類に示された記録ですから、信仰の中心にあるのは、歴史に働く主に出会って経験、体験を通して神の存在を知ることと思います。 |
![]() ![]() 聖霊様のサーフボードに乗って 高砂教会牧師夫人 手束 美智子 私は牧師家庭の長女として育ち、戦後の焼け跡に建てられた教会の中で繰り広げられる様々な牧会の現実の波にもまれながら大きくなりました。その頃の教会は、礼拝堂以外の部屋はもちろんのこと、屋根裏や庭の物置まで行く当てのない人々で溢れかえっていました。牧師館は礼拝堂の裏で、台所も一つしかなく難民収容所のような有様でした。母は過労のため高血圧の症状が悪化し、私が小学校時代からよく寝込むようになっていました。 |
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![]() (15)聖霊とは愛である 小樽聖十字教会牧師 小栗 昭夫 少なくとも23年前まで、私は「聖霊」を神学上の用語として理解していました。つまり、「聖霊とは神の力である」と。ただそれだけのことでした。現在でも、私はこの説明自体間違えているとは思いません。しかし、あの当時と現在との間には決定的な違いがあります。あの頃は、聖霊を用語のひとつとして理解していたのですから、当然、論理的な枠の中でのみ了解していたのであり、未だ体験はしていませんでした。 |
第9回 要町教会 牧 師/野澤 満雄 もともと小さい教会だったが、不祥事が起こり、牧師が交代した。着任した夜、飲みに行こうと青年たちに誘われて断った。前任牧師に連れられて飲食して歩くのがそれまでの常習で、その遊興費のための不祥事だった。飲酒や人の交わりより、聖霊の魅力こそが素晴らしく、求むべきものと説いたが、まもなく青年の多くは現われなくなった。この時、おのずと教会の路線が定められたことになる。 その後4年間は、表面上問題なく、むしろ、懸案の建築を成し遂げ、数々の癒しが起こり、悪霊は去り、人々は幻を見るなど、この教会がそれまで知らなかった霊的な恵みが注がれて、純化と基礎作りが進行中と思えた。 問題は、5年の任期が切れる前、牧師の去就を議する総会の時に突然起こった。最古老の信徒によって長欠の信者らが呼び集められ、最近受洗した信徒等は欠席を促され、牧師再任の議案を用意した役員会さえ、急な事態に押し流されて反対や白票に転じ、再任は否決された。策謀の始まりだった。 主の導きと確信して赴任してきたので、この事態に驚き、「御心は?」と神に問うたが、教規に則る『辞任総会』がもう一度必要と知るに及び、主の御手を直感した。 役員達が辞任し、役員会の機能が殆ど失われたが、策謀など不正の上に形だけの教会を継続させることに躊躇を覚え、非常事態と認識した。こうして教区・支区など外部に、多数の中傷文が出回ることになった。 そのような中で、ただ一つ、自身に課したことは、自分の意志によらず、神意に従うことであった。ここに、カリスマ信仰の独自性がある。カリスマ(賜物)の中には預言や知恵や知識など、啓示的賜物があり、この度は、そうした賜物を受けた人達の助けを借りた。一度は考えた辞任の気持ちを翻させたのは、複数の人達を通して与えられた預言であった。だから、ある時、『聖霊に導かれてきた』と皮肉り、『主観だ』と批判して乗り込んできた者がいたが、聖霊の賜物に対する無知の業である。啓示の一例だが、私達は訴訟が起こされることを事前に知っていた。一人の教会員が、法衣を着た裁判官が我々の間にいて、助けてくれる幻を見たからである。かく、時宜に適う導きがあり、み言葉はさやかだった。導きを信じる人達は皆、忠実にそれに従い、又勇敢に闘ってくれた。みごとだった。 いろいろあったが、教界の方々、政治家、弁護士、警察機関など、驚くような助け手を与えられ、五つの裁判、教区の戒規審判など全てに完全な勝利を見ることができた。この闘争に五年も費やしたが、教会は潰れもせず、毎年新しい信徒を生み出しながら保たれてきた。聴従の中で、闘い給う主にお出会いした、と言えようか。教友の執り成しに感謝申し上げる。 現在、一新された教会員、求道者と共に、開拓の如き希望の歩みを進めている。 |