第4回教職者研修会記念号


  

   
  日本伝道会会長
  松山巻祝福教会牧師 

        
小島 誠志

      
  Seishi  Ojima



 教団の教勢が下がっています。時代の状況の厳しさ、紛争の影響もあるでしょう。それだけではないと思います。紀元2000年を越えて教団千七百の教会・伝道所の年間受洗者数は1500人から2000人となっています。平均して1教会に1人の受洗者数という数字です。かつて教団の年間受洗者が一万人という時代もありました。

 もし教会が伝道に失敗したというのであればそれは良いのです。なぜなら教会は失敗して傷つきキリストに出会うからであります。教会はそうやって生きてきました。
 しかし、失敗していないのではないか。正しく言えば失敗するような試みをしていないのではないか。何もせず、ただ衰弱しているだけだとすれば希望はありません。

『種を蒔く人が種を蒔きに出て行った』

 種を蒔く人が種を蒔きに出て行かなければ何事も起こりはしません。反対されることもなく抵抗されることもありません。そのようにして教会は「平穏」の中に衰弱していくのです。種を蒔く人は種まきに出て行かなければならないのです。そして種まきに出て行ったら風が吹くのです。種は飛ばされます。多くが無駄になります。ある種は道ばたに落ちます。ある種は石の多い地に。茨の中に落ちる種もあります。無駄になります。無駄な労苦です。しかし、良い地に落ちる種もあります。たくさんの無駄の中から良い地に落ちる種があるのです。そして30倍60倍100倍の実を結ぶと言われています。失われた種を補って余りある収穫が与えられたというのです

 伝道には必ず成功する方法というものはありません。百発百中ということはありません。伝道すれば失敗します。たくさん失敗します。たくさんの失敗の中から良い地に落ちる種があるのです。全部が失敗ということはありません。失敗の中から、必ず良い地に落ちる種があります。失敗の中からです。

 だから失敗を恐れてはならないのです。今日の教会の最大の問題は失敗を恐れて動かないということではないでしょうか。

『風向きを気にすれば種はまけない。雲行きを気にすれば刈り入れは出来ない』(コヘレト11:4)

 風向きが悪い、雲行きが怪しい、そんな事ばかり言って種蒔きに行かないのです。風を突いて出て行かなければなりません。いったい伝道するのにいい時代なんてあったでしょうか。風を突いて出て行って、いっぱい失敗をして、失敗の中から良い地に実る種があって教会に前進してきたのです。失敗しないで前進したのではありません。失敗しながら前進してきました。

 伝道に失敗し挫折したところで教会は主イエス・キリストに出会いました。失敗して傷ついて主イエス・キリストに癒していただいて生きてきました。倒れたところで主イエス・キリストに支えられて起きあがりました。成功してキリストを知ったのではありません。失敗してキリストに出会いました。

 弟子たちの乗った船が突風に出会った記事(マルコ4章35節以下)があります。弟子たちの船…教会は前進すれば突風に出会います。風も波も弟子たちの手に負えないものでした。教会が直面する風波は人間の手に負えるものではありません。彼らの手腕や能力で処理できるものではありません。弟子たちはこの船の主、イエスに助けを求める外ないのです。

『わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』。弟子たちのこれは祈りです。不信心の祈りです。その祈りに答えてキリストは立ち上がり風波を静めます。

『この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』。弟子たちの驚きです。彼らは新たにイエス・キリストを発見します。主イエスのみわざに圧倒され、その力に目を開かれつつ教会は前進します。行き詰まりつつ繰り返し新しく救い主を発見しつつ教会は前進します。

つまづきつつ、主イエスに出会いつつこの小舟は前進します。それだけです。



   
  
  
                   要町教会副牧師 野澤 奈菜


今回の研修会では、小島誠志先生を講師にお迎えして伝道のチャレンジをいただき、また参加教職の間で意見の交換が行われた。

主題講演「種蒔く働き」では、第31回教団総会の「伝道に総力を尽くす」との決議より、教団再生の指針がシンプルに力強く語られた。教団会計が一例とされ、献金としてささげられた「諸教会の願い」を、かつて時流によって、ささげた方と異なる意図で消費した出来事においても、教団のあり方の根底から立て直す必要を思った。我々が共に力を注ぐべき教会の当然の務めをひたすら見据えて、その体質を立て直していく。今、その決断と取り組みが確かになされ、進められている。

主題講演で強調された使信のひとつとして、パウロが伝道に向かう際にアンテオケ教会から祈られ送り出されたことから、教会の形成は個人プレーでなく、教会を主体とし、その相互の祈りと交わりの中で成し遂げられるものであるということが語られた。カリスマ運動とは元来、母体から飛び出して遠くの方で「何か」をしている、という新しい立場や教派ではない。日本基督教団の教職として、過去の反省も責任も、現在の苦境も、将来の希望も、共に担いつつ、その霊的復興もしくは覚醒のために仕え、証しするものである。

31回教団総会が開催された頃、私は神学生で、大学でも他の会合においてもそこには伝道への熱意にあふれていた。小島先生も言っておられたが、教会が「伝道に総力を尽くす」との決議をするとは、本来ならば妙なことであろう。「そんなことは当たり前だ!」という当然のことを確かな決断をもって共に告白する事は、しかし信仰者として何と美しいことだろうか。

「日本基督教団聖霊刷新協議会」もまた、諸教会と共に祈り、共に希望を抱き、共に歩む集いとして、教職研修会に第31回総会当時の教団議長をされた小島先生にご参加いただき、伝道のチャレンジをいただいたことは、深く意義のあることだったと思う。教会全体が主の来られる時まで健全に保たれ、聖霊の豊かに働く主の家として世にあるように。聖霊刷新協議会の切なる祈りとともに、願ってやまない。



   
  
  
               日の出キリスト教会牧師 瀧本 千歳


 「第4回教職研修会」のご案内が届いたとき、表記のタイトルが私の胸に強く迫って考えさせられました。私自身、人生第2の目標として故郷伝道を始めてみて、約1年かけて9教会を訪問させていただきながら、事の重大さに気付かされたのです。と申しますのも28年前の開拓当時を思い出したからです。

 当時は何も知らない専業主婦が、興味半分で夜間神学校へ行ったために、おまけにカリスマ運動に触れたことで、母教会から追い出され、そこで初めて涙の祈りを体験しました。しかし哀れなことに、自分が何を体験しているのかさえ理解する余地もなく、神学校の命令のまま自宅が「家の教会」となってしまったのです。会員は、可愛い女子中学生が6人。主人のいない昼間だけの教会でした。相談役として母教団のリーダーであり、神学校の教師であったワリーナ宣教師と、神学校の先生方。
そのころは近所の若いお母さん方から、育児相談や夫婦問題、それに嫁姑問題などの相談を受けていました。そこから区域集会が生まれました。子どもたちはどこから集まるのか、クリスマスになると、2階の6畳と八畳の間は一杯になりました。

 1982年3月には、すぐ近くのビルの3階を借りることになりました。しかしその時の大人は10人にも満たないほどの人々だったのです。しかし主はすべてに働いて、生きておられることを示して下さいました。1998年には現在の土地、中木田町26の9番地に移ることが出来ました。
【教会とは何か?】【教会は、神が自分を召したということを自覚している人々の集まりである。】
(教会とは何か? p17 D・M・ロイドジョンズ著 いのちのことば社)




   
  
  
                   栃尾教会伝道師 吉田 隆一


 前々回、神学生という立場で参加して以来、ずいぶんご無沙汰してしまったような気がします。けれども、この間も主が日本のリバイバルを覚えていてくださり、教団を用いるべく、準備を着々と進めてくださっているということを今回の参加によって実感することができました。

 特に印象深かったのは、講師として日本伝道会会長・前教団議長の小島牧師を迎えたことです。講演において、
@伝道の主体は教会であるということ
(当たり前のことのようだが教団の歴史を振り返るとこれを打ち出せること自体が意義深いことである)
A種蒔きが種を蒔くということ(種を蒔く者が種を蒔きに出なかったなら何も起こらない)
B失敗は避けられないが、失敗する中から良い地に落ちる種があると信じてくじけず蒔き続けること
(無駄や失敗を恐れてはならない)を語っておられましたが、その一つ一つに励ましを受けました。

 さらに意義深かったことは、今回の教職者大会が日本伝道会と聖霊刷新協議会が日本における伝道という点で共に手を取り合う出発点になったという点です。

 また、プログラム全体を通して、今回のテーマ「日本の伝道これでいいのか?」という問いに対する主の御心が語られていたと受け止めています。個人レベル・教会レベル・教団レベルそれぞれが一歩踏み出すための励ましとヒントを与えていただいたことも大きな恵みでした。

 今回いただいた恵みを無駄にすることなく、自分の置かれた地で時が良くても悪くても主に信頼して最善を尽くしていきたいと思います。主に感謝すると同時に、参加された諸先生、労してくださったスタッフの方々に心から感謝いたします。ありがとうございました。蒔いた種が芽を出し、実を結んでいくプロセスを共に祈り喜びあう場としても、聖霊刷新協議会がますます用いられることを信じます。